弟切草

 三,弟切草(秘密・裏切り・敵意)



「…ろう」

「…九龍」

「九龍」
「…え?」
 呼ばれる声に気付いて顔を上げる。顔を上げた先には、真里野が心配そうに自分を見つめていた。
 九龍はそれに少し驚きながら、名前を呼んでいたであろう彼に答える。
「あ…剣介さん。えっと……何ですか?」
「……」
 真里野は反応の鈍い九龍に溜息を吐くと、首を振る。
「どうした?ここ二日ばかり、そんな調子だな。何処か具合でも悪いか?」
「え…あ、そう…ですか?ちょっとぼうっとしちゃっただけです。えっと…何の話してましたっけ?」
 そう尋ねた九龍に真里野は更にと深い溜息を吐いた。
「七瀬殿の事だろ?」
「あっ…そう、月魅ちゃんに話を聞いたから剣介さんにも教えようと思って…話していたんでしたっけ。えっと…」
 九龍は話の内容を思い出し、昨日逢って話をした七瀬の事を真里野へと語る。
 最近は更にと症状が酷くなり気付くと寝巻き姿で、寮の外にまで出ていることなどを。
 だが、その言葉も話していくうちに段々と九龍の意識を遠くにやってしまうもので…。
 真里野がその話を受け、自分が剣道部員から聞いた話をする頃には、またぼうっと自分の世界に閉じこもっていた。
 自分の言葉の半分も聞いてない九龍の様子に真里野は話を止める。腕を組むとまた一つ溜息を吐いて言った。
「…九龍、今日はもう寮に戻って休め」
「え…」
「顔色が悪い。最近しっかりと寝てないんじゃないか?」
「……」
 何も答えない九龍に真里野は眉間に皺を寄せる。
「本当に寝てないのか?」
「ね、寝てますよ。ちゃんと…」
「本当か?」
「は、はい」
「……」
 慌てたように笑顔を貼り付けた九龍の顔を見つめ、真里野は目を細めると今日何度目かの溜息を吐いた。
「とにかく今日はもう寮に戻って体を休めてくれ。そんな顔をしたお主を拙者は見たいと思わん。しっかりと食事をし、睡眠をとれ。九龍」
「剣介さん…」
「食事を作るのが大変だと思うなら、部活の後にお主の部屋に寄って拙者が世話するが…」
「あ、いいえ!」
 真里野の言葉に九龍は慌てると、首を振る。こうして自分に気を使わせる以上に真里野に手を掛けさせるわけにいかなかった。
「だ、大丈夫です。料理するのは好きですから」
「九龍…」
「心配掛けてしまってすいません…」
「それは別に構わぬが…」
 謝った九龍に真里野は、何時の彼らしくないと胸に引っ掛かりを覚える。
 何時もの彼なら…何時の九龍なら本当に体調が悪いならそれを自ら口にし、再三に渡ってこうも他人に心配を掛けさせない。
 むしろ真里野が心配していることを口にすれば『じゃあ、貴方を心配させないためにも早く治しますね』と、
 心配する相手を慮る一言を切って返す人物だった。
 真里野はそうして“何時もの九龍”を期待するが、俯いた顔を上げた九龍は微かに笑う。
「じゃあ俺、今日は寮に戻りますね」
 と、真里野の期待を裏切る一言を口にした。
 その言葉に、真里野は一抹の翳りを思いながら頷いて応えるが…。
「…ああ。気を付けてな」
「はい」
 一つ礼をして自分に背を向けた彼を見つめ…迷った後、もう一度声を掛けた。
「九龍」
「はい?」
 真里野の声に九龍は足を止めて振り返る。自分を呼び止めた真里野を『まだ何か用があっただろうか?』と、見つめた。
 自分を真っ直ぐに見つめ返す九龍に真里野は少し躊躇った後、引っ掛かりを覚えた胸のうちを言葉に変える。
「その…拙者に何か隠し事をしてないか?」
「っ」
 九龍は心底ドキッとして息を呑む。
 二人の距離が近かったならその黒い瞳が小さく瞳孔を縮めたことまで見えただろうが、歩き出していた距離にそれは真里野には分からなくて。
 九龍はドキドキと鳴り続ける心臓を必死に押さえると殊更ゆっくりと微笑み、首を振った。
「そんな事、ないですよ」
「そうか?」
「ええ。隠すって剣介さんに俺、何を隠せば良いんですか?」
「……」
「……」
 黙って九龍を暫く見返していた真里野は、彼の笑みに一つ息を吐くと、首を振る。
「分かった。拙者の勘違いだ。すまぬ」
「いえ…」
 少し気を緩め、目を細めると言った。
「気を付けて帰れよ」
「はい。剣介さんも…部活頑張って下さい」
 九龍はもう一つ頭を下げると、踵を返す。心の中は今吐いた彼への嘘に、居た堪れない気持ちで一杯だった。







 道場から寮へと歩く。歩きながら考えてしまうのは二日前の出来事だ。
 九龍は左手を上げ、人差し指にと出来た傷を見つめる。人差し指の側面には一筋の傷跡。紙によって切ってしまった…小さな傷。
 僅かに傷口の肉が盛り上がり、新しい皮がその下から傷跡を埋めるように出てきているのさえ見える。
「……」
 九龍は左手を脇に下ろすと足を止め、冬枯れで落葉した木を見つめた。

 あれから…二日経った。
 あの後、気が付けば自分は保健室のベッドに横になっていて。
 しっかりと着込まれた衣服の様子が、まるで何もなかったように思えるほどだった。
 そう、睡眠不足を解消するべく保健室に行き…あの事は夢に見たことだったと言わんばかりに、普通に横になっていたのだ。
 だがこの指にと残った微かな傷跡が、そして手首にと出来た擦過傷が、全ては現実だったのだと物語っていて。
 横になっていたベッドから降り、保険医である瑞麗に挨拶をして出た廊下で…あの何とも慣れない感覚に足を止めた。
 地球の重力によって落ちてきた雫が、自分の肌を伝い下着を染めるあの感覚。
 それを感じてその場に座り込み、膝を抱えたことまで思い出すと九龍はまた左手を上げる。
 人差し指に残った傷跡に右手の親指の爪を使って上から傷を付けようとした。
 …が。
「……」
 更にとそこに傷を重ねれば、傷跡はその分大きく目立つものになる。
 ついぞこの前、真里野にとそう自分の体に傷跡を残すかと話していたばかりだけに、ならこれは皆守の痕なのかと考えてしまう自分が居て…。
 我慢できなくなると、結局は人差し指から視線を逸らした。
 この傷が跡形もなくなるように、自分の心からも記憶からも彼の影が無くなれば良いのにと、目を瞑った。

 そうして割り切れない感情に苛まれながら九龍が寮に向って歩いていると、横から声を掛けられる。
「九龍」
「え…?」
 自分を呼んだ声に振り向けば、男が一人立っていた。自分より背の高い、良い体躯の男。同じクラスの夕薙である。
 夕薙は九龍に近づくと首を傾げた。
「珍しいじゃないか。こんな時間にこんなところに居るなんて。何だ?寮に戻るところか?」
「大和さん…」
「何時はまだ剣道部に顔を出している頃だろ?…と、顔色が悪いな」
 話し途中の言葉を途切らせ、夕薙は眉間に皺を寄せると九龍の顔を見つめる。
「もしかして、君も例の夢遊病に悩まされている一人か?」
「えっ…」
「ここの所、男子生徒を始め数多くの生徒がそうして夢遊病と呼べるような症状に悩まされているのを、君は知らないのか?」
「あ、いえ…それは知っていますが…」
 言葉を濁らせ俯いた九龍を見て、夕薙は察すると腕を組みなおす。九龍を図るように目を細めた。
「君はまた違うということか」
「……」
 返事を返さなかった九龍に夕薙は、肩を竦める。普段の彼よりずっと重い雰囲気を和ませようと穏やかに微笑んだ。
「何はともあれ、ゆっくり休んで食事を摂ることだな。それだけで大抵の事は良くなる。体調が悪いというなら、それで大分違う筈だ」
 先程真里野に言われた言葉を口にした夕薙に九龍は顔を上げる。
 夕薙はそうして九龍が顔を上げたのを見て、穏やかだった顔を苦笑いに変え…。
「もっともこんな台詞、体が弱いって広言している俺が口にするのも説得力のない話かもしれないがな」
 と、おどけてみせた。九龍はその様子に微かに笑い、首を振る。
「いえ、そんな事ないです。心配してくれて…嬉しいですから」
 何時もに比べたらずっと小さい九龍の笑みを見て、夕薙は苦笑いを仕舞う。
 九龍が抱えているものが何なのかは分からないが、辛いものに違いないのは変わってしまったその笑顔に分かる。
 それでもそうして自分に返事を返す九龍に打たれると彼の頭に軽くポンと手を乗せて言った。
「…君は相変わらず、いい奴だな」
 自分の言葉に更にと穏やかに微笑んだ九龍を見て、手を下ろすと夕薙は手にしていた荷物を握りなおす。
「さて、それじゃあ俺はそろそろ行くぞ。体調が今日は良いから部活の方に顔を出そうと思っているんだ」
 肩に背負った胴着を持ち直した後、九龍を真っ直ぐ見つめた。
「君も真っ直ぐ部屋に戻ってゆっくり休めよ」
「はい。大和さんも、部活頑張ってくださいね」
「ああ」
 九龍の言葉に頷き、手を上げると夕薙は歩き出すが…数歩行ったところでその足を止めるともう一度振り返った。
「そうだ。せっかく寮に早めに帰るなら甲太郎を構ってやってくれないか?」
「え…」
 道場に向って歩き出した夕薙に合わせ、寮に踵を返そうとしていた九龍もその言葉に足を止める。
 そう声を掛けた夕薙をもう一度見つめ直した。
「今日の昼、あいつが屋上で一人物思いに更けているのを見てな。ああしたあいつを見るのは、君が来てからはとんと観てなくて却って驚いたよ」
「……」
「あいつも不器用な奴だからな。色々とまた悩みこんでいるんだろ。
 君にならあいつも何か話すかもしれん。良ければ、話を聞いてやってくれないか?」
 純粋に自分たちの間を信じているその言葉に、九龍はうろたえるが…少し考えた後に、顔を俯かせると頷いた。
「…はい」
「……」
 その様子に夕薙も何かに思い至ったようで、今は自分から視線を俯かせている九龍を見つめると口を開く。
「九龍、俺が言うことでもないが…甲太郎にとって君という存在は貴重なものだ。これでも俺は、あいつと一年以上付き合っているからな」
 夕薙の言葉に、九龍はまた顔を上げる。
 顔を上げた先で夕薙は何とも優しい瞳で九龍を見つめていた。
「だから…あいつが馬鹿やっても許してやって欲しい。…俺は君にそれぐらいの許容がある事を望でいる」
 そこまで夕薙は話して、ふっと笑うと首を振る。
「すまない。君には“誰も信用するな”と忠告をしておきながら、こうして独り善がりな事を頼んで」
「いえ…」
「俺自身、君には色々と思うことがあって…どう話して良いのか分からなくなる時がある。ただ、期待をしているんだ。いろんな面で」
「……」
「それだけは…分かって欲しい」
「はい…」







 夕薙と別れ、彼に言われたことを考えながら寮に帰り着くと九龍は自室に向う。
 3階に設けられた部屋に向って階段を上り、その一方で更にと夕薙の言葉に悩みを深めていた。
 夕薙に言われた言葉は、自分の心の傷に抵触していて…今は痛い。
 本当なら自分だって皆守を許してやりたい。事実、大抵の事を彼になら許すことだろう。
 皆守は大切な人だった。真里野とは別に、彼も確かに自分の中の一部を占める重要なファクターの一つだったのだから。
 でも…。
 二日前にと行った事。自分へとした事はその気持ちを萎縮させるには充分で、どう接して良いのかも分からなかった。
 大切だった親友の皆守。
 自分に愛を告げた彼を…そしてあの行為を許す事は、どうして直ぐに出来ようか。
 大切だったからこそ、その行為を直ぐに許してはいけないし、許せない。
 これがむしろ全然違う人だったらまた違ったのかもしれないと思うと、九龍は一層切なくなった。
 親友としての彼を欲する自分を切り捨てたくて切り捨てられない。
 こんなに悩んで動けなくなるなら、先ほど外で考えたようにいっそ人差し指に出来た傷ごと全て忘れてしまいたかった。

 そんな事を考えながら九龍は3階まで階段を上りきる。そこに上から声が掛かった。
「浮かない顔をしているね。葉佩九龍くん」
「え?」
 誰も居ないと思っていただけに急に掛けられた声に九龍は驚く。目を瞬きさせながら、声の主を振り仰いだ。
 振り仰いだ先には屋上へと続く階段に青年が一人。自分を楽しそうに見下ろしていた。
「…喪部」
「くくくッ。そんなに警戒心顕わにボクを観なくても良いだろ?同じ転校生同士、仲良くしようって話したじゃないか。キミは忘れてしまったのかい?」
「……」
 そう言うと喪部は、ゆっくりと階段を下りてくる。黙ったままの九龍に首を傾げて尋ねた。
「それともキミはボクに何か含むところでもあるのかな。それなら話は分かるが…」
「そ、そんな事はないけど…」
「なら少し話をしないか?初めて見た時からキミには興味があったんだ。
 この學園には間抜けな羊と愚かな羊飼いしかいないのかと思ったけど、キミとなら仲良くなれそうな気がするからね」
「……」
「それにボクはキミが興味を持つような事も話してあげられると思うよ」
「俺が興味を持つような話?」
「そう」
 嫌疑的な視線を向けた九龍に喪部は一歩近づくと、九龍の耳元で一言漏らす。
「二日前の保健室」
「!」
 驚いて喪部の顔を見た九龍に喪部は艶然と微笑む。
「興味が沸いたみたいだね」
「……」
「じゃあ、場所を変えようか。ここは人目が気になるだろ?…そうだね。屋上にでも行こうか」
 先にと階段を上り出した喪部は、九龍を肩越しに振り返ると目を細めた。
「きっと今頃は夕焼けに綺麗だよ。…キミにとっては、色々と思い出す事もあるだろうけど」







「…やっぱり夕日が綺麗に見えたね。キミは夕焼け好きかい?」
 屋上に入って柵近くまで喪部は歩くとそう九龍に聞く。
「ボクは好きだよ。この色が胸をざわざわさせる。…血を思わせる良い色だ」
「……」
 九龍は屋上の入り口で立ち止まったまま喪部の言葉に答えず、目を細めると警戒心も顕わに尋ねた。
「どこまで知ってる?」
「…キミは思ったよりせっかちだね」
 無粋な言葉を聞いたと言うように喪部は九龍に肩を竦めると、彼を振り返る。
 ゆっくりと立ち止まったままだった九龍へと足を進めながら話し始めた。
「逢魔ヶ刻…って言うだろ?今くらいの時分の事を。日が沈み、夜の闇が覆うまでの刹那の時間。黄昏…“誰(た)そ彼(かれ)は”とも」
「……」
「人の目が一番効き難い時刻。ただの人でさえ、“魔”に見えてしまうのかもしれないこの時刻を」
「…っ…」
 一瞬、夕焼けに影となった喪部の瞳が光ったように見えて九龍は息を呑む。
「喪部…」
 息を呑んだ先で喪部はニッコリと鮮やかに笑うと口を開いた。
「葉佩九龍。国籍日本。京都府出身。身長167cm、体重53kg、視力1.5。得意科目英語、苦手科目は美術」
「えっ…」
「2004年9月21日私立天香學園3−Cに転校。剣道部に所属するも活動には参加せず、マネージャー業に徹する」
 流暢に喪部が語る前で九龍は慄然として彼を見つめ返す。
 喪部はそうした九龍自身でさえ楽しむように笑みを強くした。
「同クラスの皆守甲太郎、並びに3−B所属の真里野剣介との友好が深く、深夜墓地での目撃情報も報告されている」
「どうしてそこまで…」
「キミに興味があるって言っただろ?そう、ボクはキミに興味があった。キミにはボクに近い匂いを感じるのさ」
 喪部はそう言うと目を細める。まるで九龍を見定めるように鋭く見つめた。
「この学校では墓地に関わるものは、生徒会執行部の粛清が入るそうじゃないか。なのにキミはそうして此処にいる」
「……」
「キミは一体何者だい?」
「……」
 夕日が最後の光を地上に投げる。
 それが沈みきり、辺りが薄闇に包まれても九龍は微動だに喪部を見つめ、口を開かなかった。
 その様子に喪部は、ふっと笑うと目を伏せる。首を振った。
「…話さないか。まァ、それでもいいさ。臆病なハンターほど長生きするというしね」
「えっ…?」
 喪部の漏らした言葉に九龍は驚いて聞き返すが、喪部はそれを無視して九龍を見つめなおす。
「先程の質問にまだ答えてなかったね。“どこまで知っているか”」
「……」
「全部だよ。恐らくキミが恐れていること全部をボクは知っている」
 そう言うと喪部は九龍へと歩みだす。一歩一歩と喪部が足を踏み出す度に近づく二人の距離に九龍は、威圧感を覚え後ずさるが…。
 程なく屋上の入り口を形成する壁に踵が当たり、それ以上の歩を許さない状態になった。
 喪部は殊更ゆっくりとそうして自分から後ずさった九龍を見つめ、近づいていく。
 やがてその距離は息さえも掛かるほどに近寄り、そこまで来てやっとと喪部は足を止めた。
 二人の身長差に九龍は仰ぐように喪部を睨む。
 喪部は睨まれる横で楽しそうに目を細め、更に威圧を掛けようとか九龍の頭の上に右手で肘を付いた。
「葉佩。キミは知っているか?」
「……」
「盗聴器っていうものを」
「え…」
 九龍が喪部の言葉に驚いた瞬間。喪部は左手を使って九龍の学ランの胸元にあるボタンを引きちぎった。
 突然のことに九龍が目を覆った傍らで、手に取ったボタンをそのまま屋上の床へと落とす。
 コンクリートに響いた小さく高い音に九龍も瞑った目を開ければ、喪部はそれを靴の裏で潰した。
 パキッという軽い乾いた音と共に、退かした喪部の靴を見れば…
 靴の影から現れたボタンは半分に割れ、その中からは微細な配線コードや機器が床へと散らばらせていた。
「っ」
「つまり聞いていたって事さ。質問の答えになったかい?」
 驚きと共にショックを隠しきれない九龍はそれに目を留め、動けずに居たが…喪部はそうした彼の顎を捕らえると上向かせる。
 戸惑う九龍に唇を落とした。
 少しの間、喪部はその柔らかい感触を味わっていたが…。
「ッ!」
 突然の痛みを自分の唇に覚えると、九龍へ寄せていた顔を上げる。
 血で元から赤い唇の端を更にと染めた九龍は、先程以上に嫌悪の篭った眼差しで自分を見つめていた。
 それににやりと笑うと、右手の親指で唇に滲んだ血を拭う。
 睨まれるその視線を楽しみながらペロリとその親指を舐め…次の瞬間、九龍の腹に当身を入れた。
「!」
 とっさの事に準備のなかった九龍は、まともに入った当身に眉根を寄せ前のめりに倒れるが、
 自分の肩へと倒れてきた九龍を喪部はそのまま左手で首を絞める。
「ぁっ…」
 壁にとずり上げるように締め上げ、細い首を通って紡がれる空気の音を殊更楽しみ…。
 自分の首にある喪部の手を緩めようと上げられた九龍の左手を、学ランから取り出した手錠に捕らえ、屋上の壁にある配管に拘束した。
 片腕を封じた喪部はそれに九龍の首を絞めていた腕を緩め、開放する。
「ゴホッ、ゴホッ…」
 絞められた首を開放された九龍は咽ながら懸命に息を継ぎ…
 侭ならない自分の左手に気付くと、虚ろな眼差しで縫い付けられた左手に目をやった。
 煩わしいその感覚に左手を引いてみるが、太い配管にと繋がれた手錠がある一定の距離へと自分を縛り付ける。
 それでもガシャガシャと何度も引いて、手錠か配管が外れないか試すが…。
 ビクともしないそれらが決して手で引きちぎれる程、柔なものではないと理解すると今は自分から距離を取り、
 観察をするように自分を見つめていた喪部へと視線を投げる。
 喪部は月もまだ昇りきらない暗闇に表情の読めない顔で、自分を見つめていた。
「…俺をどうする気だ?」
 どんな表情をしているかも分からない相手に、九龍は内心焦れながらも…牽制を籠めてそう問う。
 すると喪部はふっと自分から視線を逸らし、胸元から小さな箱を取り出した。
 箱は煙草の箱で、喪部はその中から一本引き抜くと口にくわえて火を点ける。
 ゆっくりと煙を肺へと入れ…。
「どうする気だと思う?」
 吐き出しながら、九龍を観ずに反対に問い返した。
「……」
 九龍はそうした喪部に眉間を寄せる。



 はぐらかした答えに喪部へ詰め寄ろうとしたが、ガシャッと耳障りな音を立て自分を押し留めた左手首に気づいて、再度その手錠に目をやった。
 忌々しげにそれを見つめ、自由になる右手で自分の胸元を探り、数本の針金を取り出すとその手錠の鍵穴に差し込む。

 詰問するにしろ、何をするにしろ、この状態では自分が圧倒的に不利であるのは明白。
 ならここから抜け出し、対等の立場になってからそうした取引をした方が良い。
 そう判断すると、九龍は手錠を外すことに集中する事にした。

 暗く静かな屋上に、カチャリカチャリと機械的な音が響く。
 喪部はその音に彼をちらりと見るが、興味がないようにまた視線を戻すと手元にある煙草を口にする。
 暗い闇の中で煙草の先に点けられた火が、喪部の呼吸に合わせて一瞬だけ明るく光を放った。
「好きなんだ、ボクは。こうして人を追い詰めること。追い詰めた相手が足掻くところを見るのはね」
 ゆったりと煙草の煙を楽しみながら喪部は暗い闇の先でそう語る。
「特にキミみたいに、ボクに敵意を抱くものが足掻いた先でボクに屈服するのを見るのは、この上ない喜びさ」
「……」
「臆病なハンターを狩るのもまた、ね。くくくッ…」
 そこまで話すと、煙草を屋上の床に落とす。靴の裏で火を消すと九龍へと向き直り、歩み寄った。
 未だにガチャガチャと鍵を開けようと必死になっていた九龍に目を細める。
「無駄だよ。それはボク仕様に特別にあつらえたものだ。キミごときに開けられるわけがない」
 縮まった距離に喪部へと視線を移し、その瞳に残忍な光を見つけて九龍は息を呑む。
「…っ…」
 そんな九龍さえ喪部にとっては嗜虐欲を誘う以外の何物でもなくて…。
「さて…」
 手錠を開けようと左の手首に寄せていた右手を喪部は取り上げると、体を開かせて壁に押し付けた。
「痛ッ!」
 ギリッと手首の骨をきしませるほどに握られた右手首に顔を歪ませた九龍を見ながら、
 喪部は腰から一本のコンバットナイフを取り出すと口でその鞘を抜く。
 冷たく光る刀身に気付いた九龍が、身を竦ませた瞬間。
「ッ!」
 ナイフは九龍の体を縦に真一文字に走った。布が強引に切り裂かれる音が屋上に無常に響く。
 身を硬くし、目をきつく閉じた九龍が次にと目を開けた時には、
 つい先程まで自分の身を包んでいた制服が、もう身を隠さないものに変わったことを知った。
「っ」
 力なく両手を挙げた自分の前でだらりと開く胸元。腰にと締めたベルトの支えを失ってズボンがずるりと膝にと下がる。
 ズボンの下にと身につけた下着でさえ今は前を晒し、不恰好以外の何物でもなかった。
 喪部は傷心した九龍の顔と格好に微笑み、腰にあるだけの下着の端をナイフで切る。
 下着はそれによってただの布と化し、上にと履かれていたズボンの後に倣った。
「……」
 自分の太ももを下がるその感触を感じながら九龍は、自分を奮い立たせると最後の抵抗をするように喪部を睨みつける。
 睨まれた喪部はさも嬉しそうにコンバットナイフを鞘に収めると、床へと放った。
「良い格好になったじゃないか、葉佩」
 と、自分にと開け広げられた白い胸へと右手を這わせ、冷たい外気に立った胸を指で摘み上げる。
「ッ!」
 九龍は快楽より苦痛の大きいそれに顔を顰めた。
 歪んだ九龍の顔に喪部はまた一つ喜びを見出すと、九龍の胸に当てていた手を脇腹を掠めさして腰のラインへなぞらせる。
「傷だらけの体」
 指にと引っ掛かった傷を指で辿り、九龍の顔が嫌悪に満ちるのを楽しんだ。
「微かに残った首もとの花は此処で付けられたんだろ?」
「……」
 鎖骨をなぞり尋ねた言葉に九龍は、顔を逸らすことで凌ぐ。
 喪部は自分から逸らされた九龍の顔が、屈辱感に溢れているのを知ってまた笑うと今度は唇で胸に近づいた。
 ふぅっと息を吹き掛け、寒さに震えた九龍の胸の先端を口に含ませる。
「ぁ!」
 驚くような小声を瞬間上げた彼に笑み、舌の上で充分転がして舌触りを楽しんだ後、歯を立てた。
「ッ!」
 快感の後に襲った鋭利な痛みに身を強張らせた彼を笑って喪部は顔を挙げると、親指で自分の口元を拭ってみせる。
「先程のお礼だよ」
 と、涙に滲んだ目で自分を見る九龍に目を細め、舌で彼に噛まれた唇の端を舐めた。
 自分を伺うように見つめていた喪部から九龍は一旦顔を伏せる。少しして意を決すると顔を上げ、口を開いた。
「喪部。もういいだろ?」
 その言葉に喪部は、首を傾げる。
「もういい?何がだい」
 話を促した。
 九龍は囚われた状態でも喪部を睨み、息さえ掛かる距離に居る彼に牽制しようと食って掛かる。
「俺を剥いて、こうして無抵抗になすがままになっている。それだけで充分満足しただろって言っているんだ。」
 九龍の言葉に喪部は面白いことを聞いたと、顔を緩ませた。腹を抱えて笑い、さも楽しそうに言う。
「くくくッ。キミは何を勘違いしているのか」
「……」
「これだけで満足を得られたかって?キミは全然分かってないね。ボクが望むのはキミが傷つくところだよ。…徹底的にキミを壊すこと。」
「…っ…」
「断末魔の苦しみに喘ぐ声が聞きたいのさ」
 そう語り終わると喪部は、息を呑んだ九龍にまた口を落とす。
 首にキスし、消えかかっていたキスマークを上から吸ってもう一度付け直し、
 耳たぶに歯を立てる一方で空いている右手を九龍の背に這わせ、背筋を扇情的になぞる。
「ん」
 腕も侭ならず、なすが侭になっている九龍は、ゾクリゾクリと背筋を這う快感に自分を叱咤しながらも抵抗を続け…。
 唯一自由になっている足を使って喪部に距離を取らせようとするが、膝までずり下がったズボンが枷になって思うように上がらない。
 却って先程以上に足を晒す結果になったそれに…喪部は笑った。
「その気になったのか?葉佩」
 と、背にやっていた手を九龍の腰を伝って臀部へと手を這わす。
 丸いその丘状をなぞり太ももの裏を擽った後、抱き寄せるようにその足を僅かに上げさせ、その合間に自分の膝を割り込ませる。
 それによって足が開き、晒される形を取った局部へと喪部は手を這わしながら耳元に囁いた。
「聞かせてくれよ。保健室での感想を」
「っ」
 耳を舐め、軟骨を甘噛みされる一方、加えられる喪部の手の感覚が否応なく自分を煽る。
 ビクッビクッと訪れる快楽の波に体を震わせながら、九龍はそうした自分に吐き気を感じていた。
 喪部はそうした九龍には気付かず、更にと荒く激しくそして優しくと緩急をつけて愛撫を続ける。
「彼には話したのかい?保健室でのことは」
 と、口では尋ね、九龍が話せない所まで行っている事を悟っては、口腔で笑った。
「…ぁっ…」
 前のめりになり喪部の肩に顔を俯かせ、必死に嬌声を堪えている九龍を伺う。
 早い呼吸を返す九龍に、自分の手で弄り続けている彼が何もしなくても形を維持し続けるようになっている事を悟れば、手を離した。
「話せる余裕がなくなるほど、欲情しているのかい?葉佩」
「…っ…」
 若干体を離し、目下にとした九龍を見つめ…さも楽しそうに喪部はなじる。顎を捕らえ、自分を見つめさせた。
「そんな虚ろな目をして。その顔を見るのはボクで何人目なのかな」
「……」
 言葉を返さない彼にクスリと笑うと顎を捕らえていた手を離し、肩を竦める。
「まァ、いいさ。キミの過去に興味はない。ボクが大事なのは今自分が楽しめるかどうかって事だけだからね」
 一歩近寄り、唇の端を上げた。
「そろそろ、本番を始めようか。葉佩」
 自分の膝に引っ掛けていた九龍の足を腰まで持ち上げると、距離を詰め自分の腰骨と壁で九龍の体を支える。
 自由にした右手を使って自分のズボンの前を開け、欲情した自分を出すと今度は学ランの胸元を探らせた。
 指で見つけた掌サイズの白いチューブを取り出し、その中から透明のジェルを指に取る。
 体温より低く、指に冷たく感じるそれは指の熱を奪うと更に流動性を増し、喪部はその感触に笑むと自分に塗りつけた。
 そこまで終わらせると右手をまた九龍の腰に上げ、支える。
「キミが痛い分には構わないが、ボクが傷を負うというのは割が合わないからね」
 と笑い、慣らさずにそのまま一気に九龍へと入れた。
 摩擦を軽くするジェルにそれは難なく入り、むしろ迎える九龍の方が準備がなかっただけに衝撃も強く体を反らせる。
「ぁ!」
 喉から細い息が漏れた。
 ずんぐりと重い腰への衝撃。入られる異物の違和感。排泄しようとすればするほど、喪部は笑い…自分を追い立てる。
 涙が零れた。
「…っ…」
 皆守の時とはまた違った感情が自分を支配する。
 壁に押し付けられていた右手は、その感情に抵抗する力を失い…だらりと喪部の手首へと垂れる。
 それに気付いた喪部は右手を抑えていた手を放し、九龍の腰を両手で抑えると腰の動きを激しくした。
 九龍はその動きに身を揺すられぼんやりと空を仰ぎ見る。見上げた空には…あの晩と同じように、白い月が自分を見下ろしていた。









「…楽しかったよ」
 身づくろいを整えた喪部はそう言うと、壁に寄りかかってぼんやりしている九龍に近づく。
 俯いている顔を上げさせ、唇を重ねた。
 先程、噛み付いた九龍はそれ自体が嘘のように喪部のキスを受け、焦点の合わない目を彼に向ける。
「……」
 唇を離した喪部もそれにクスッと笑うと『ああ』と何かに気付いたように自分の左耳からピアスを一つ取り外した。
「従順なキミにボクからプレゼントだよ」
 と、九龍の左耳の耳たぶに触れ、二つ並んだ金色のカフスの一方を指に取ると、冷やしも麻酔もせずそのままピアスを耳たぶに刺す。
「ッ!」
 茫然自失といった九龍もその鋭い痛みに一瞬、体を引き攣らせた。
 その様子に笑みを濃くした喪部は、無理矢理開けたピアスに九龍の耳たぶから流れ落ちた血液へと唇を寄せる。
「この傷を見たら思い出すだろ?」
 鉄の味を舌の上で楽しみながら喪部は笑い、耳にキスを落とすと間近で九龍の顔を見た。
「今夜の事を」
「っ」
 喪部が覗いた黒い瞳がその言葉に酷く傷ついた光を見せたのに目を細めながら、九龍の左手を捕らえていた手錠を外す。
 最後にと血の味が滲むキスを九龍にし、喪部は九龍を一瞥して屋上を降りていった。
 九龍は喪部が目の前から去ると、解き放たれた左手の重さに耐え切れなくなるように、ずるずると体を壁へとずり下げる。
 ぺたりとコンクリートに腰を下ろし、冷たい床の感触を肌に知った。
「……」
 ぽたり、ぽたりと流れ落ちる耳たぶからの血が自分の肩口を濡らし、時折制服の詰襟に当たった雫が首に跳ねる。
 身を委ねたコンクリートは冷たく、九龍の体温を奪っていく一方、そうした自分の血液だけが一人残った屋上で、嫌に暖かく感じられた。
 ぼんやりと虚空を見つめた九龍の視線の先には、喪部が床に落としたコンバットナイフが映っている。
 しっかりとした皮で出来た鞘に納まった刃の片鱗が、月明かりに青白く光を放っていた。
「………」
 やがて、その光に誘われるように九龍はコンバットナイフへと手を伸ばす。冷えきった手に収まったそれは掌に硬く、程よく重い。
 惹かれるように九龍は刀身を鞘から抜き放った。
「っ」
 抜き放てば月光に刃が照らされ、暗闇に慣れた九龍の目を刺激する。その光に九龍は、つい先日真里野から貰った小太刀の事を思い出した。
 彼の半身だと語った霊刀八咫烏は、鍔に八咫烏を象徴する三本爪の文様が入ったもので、鞘を抜き放った自分を静かに見つめ返していた。
 日本刀独特の他を排した美しさを有したその様子は、元の主である真里野自身を表すように厳しくも優しい印象を九龍に抱かせる。
 鞘から抜き出し、その刀身に映った自分の顔までを思い出した九龍は、今手にしているコンバットナイフを鞘へと仕舞った。
「……」
 沈痛な面持ちで、ばらばらになった制服をかき抱き、立ち上がると屋上を後にする。
 廊下に人がいないのを見極めてから自分の部屋に転がり込んだ。

 部屋に入れば、電気を点けずに…そっと、真里野からもらったその刀を取り出す。
 先程手にしたコンバットナイフより幾分大きく、重いが…カチャリと鍔鳴りする様子さえ、今は愛しく、九龍はそれを胸にと抱きしめた。



 窓から差し込む月明かりだけの暗い部屋で一人。
 声なき涙を、腕に抱かれた刀だけが優しく受け止めていた…―――――――――――――











 三話『弟切草』、どうだったかしら…?
 皆守さんのこと、そして今回の喪部さんのこと……つい、この前まで幸せだったのに。
 少しづつ変わり、壊れ始めた二人の関係は、そして未来は……これから、どういう方向へ向かっていくのかしら。
 それにしても、喪部さんも盗聴器を九龍さんに付けていたのね…注意が必要だわ。


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