ラベンダー
二,ラベンダー(不信・沈黙・私に答えてください)
気が付けば大河の中に自分は居た。
大河は、流れが速く…自分の肩ほどまである水の勢いは強くて、ふとすると自分ごと流されてしまいそうになる。
揺れる肩と上半身を持て余しながら、精一杯それでもと流れの中で立ち続けていれば…自分は腕の中に"何か"を抱えている事に気付いた。
腕にとすっぽり収まる"それ"は川の流れに形状すら分からない。大きいのか軽いのかでさえも。
ただ、"何"であるかも分からないのに…それが"大切なもの"であるいう認識だけは、揺ぎ無くあって…。
川の流れに流されてしまわぬよう、先ほど以上に必死になって自分は川の中で立つ事になった。
流れに背を向け、抱える腕には力を籠めて、と。
だが…川の流れは本当に速くて、少し気を抜けば"それ"がするりと腕から抜け落ちてしまいそうになる。
それに気付いて、更にと腕に力を籠めるのだが…背にと当たった木片についに、その手は解かれてしまった。
「ッ!」
流れに飲まれ、手にしていたものは…手元を離れる。
放してしまったショックと失われてしまったモノを想って…目は自然と下流の流れを追い、手は虚空を彷徨う。
下流へと続く激しい水の流れ。それが憎くて憎くて、そして手を解いてしまった自分が呪わしかった。
放したくなどなかった。
離れた"それ"を追いかけて…いっそ川の流れに身を任せる事が出来たなら、きっと幸せだった。
でもそうは、なれなくて…。
自分は一人、大河に残された。孤独な想いを一人抱きしめて…―――――――――――――
「ッ!」
目が覚めた。目が覚めると共に開けた視界は未だ暗い部屋で。
自分の背にと感じる確かな寝具の柔らかさを実感しながら、
真里野は未だにバクバクと言い続ける心臓にたらりと冷や汗が背を流れていくのを感じる。
夢だったのだと自覚するまでに数分を要した。
夢だと理解すると…未だに胸に残っている寂寥感に息を吐いて、気持ちを洗い流す。今のは全て夢だったのだと。
「…剣介さん」
そうした自分を見越してか、タイミングよく隣から掛かった声に一瞬ギクリとなるが…
聞き覚えのあるその声に、昨夜の事を思い出すとそう尋ねた彼へ手を伸ばす。
傍らにと眠る彼の頬に触れ、その暖かさに息を吐く以上に洗い流される気持ちを知りながら真里野は、尋ねた。
「すまぬ、起したか?」
彼…九龍はその言葉に首を振るが、真里野の態度に何かを感じたのか、上半身を起すと暗い部屋の光の中、彼の顔を見つめる。
「大丈夫ですか?魘されていたみたいだけど…」
「……」
少し前から起きていたのだろう、寝ていた自分の状況を口にした九龍に真里野は口を噤む。
魘されていたというぐらいだ、自分にその覚えはないが…釈明ぐらいはしなければ、却って彼を心配させる事になる。
そう思い彼に合わせて真里野も上体を起すと彼の眼差しを真っ直ぐに見つめ、軽く首を振った。
「嫌な夢を見た。それだけの事だ」
「どんなですか?話したら多少は違うかも…」
「……」
心配してそう尋ねてくれる九龍に微笑むと、その頭を撫でる。
「済まないが、忘れてしまった。お主に聞いてもらい…拙者自身、楽になりたかったのだがな」
「剣介さん…」
「気に病むな。所詮、夢だ」
そう締めくくる一方、真里野は今自分で口にした彼への"嘘"を本物にしようと未だ残っている夢の印象に蓋をする。
リアルな…リアルすぎる程に自分を襲った寂寥感。
喪失感が胸にしこりを残し、なかなかどうして蓋は完全には閉まらないが、
今九龍が言ったようにそれを口にして、その気持ちが本物になってしまうのが嫌だった。
傍らに居るのは、今話しているのは自分が初めて恋焦がれた相手。
その大切な相手との最初の朝を、そうした不安に満ちたものに変えるのを嫌うと…真里野は無理矢理にでも笑顔を型作る。
「……」
九龍はそうした真里野の気遣いを知ってか、口を噤むと彼の次の言葉を待った。ただ、眼差しだけは変わらず彼を心配気に見つめながら。
真里野は九龍のその視線を暫く黙って見返していたが…やがて逃げるように未だ暗い窓へと視線を移す。
夜明けを迎える前の静かな暗さがそこにはあった。
「…直に朝だな」
「……。ええ」
明確な答えを口にしなかった彼に九龍は黙ってその横顔を見つめたが…一つ頷くと、彼に倣って自分もカーテンの引かれた窓を見つめる。
窓を見つめながら今の時刻を思い…。
「そろそろ俺、部屋に戻らないと」
と、一抹の寂しさを滲ませて呟いた。
「そう、だな」
真里野は九龍の言葉に頷きながら自分の想いに戸惑う。
頭ではしっかりと理解している。彼が部屋に帰らねばならない事も、日常生活で共に居る時間の短さも。
だが、こうして一度体を通じてしまうと人の体温が側に居るのが当たり前に思えて…一人きりになるのが妙に寂しい。
昨日までは普通に過ごしていた事なのに…こうも変わるのかと、自分の変化に真里野はまごついた。
それだけ、彼が今の自分にとって大切な証なのかもしれないが…。
「ふっ…」
鼻でそうした自分を笑うと、寂しいと想う気持ちごと振り払う。
情の剣に生きよと教えられた男にこうして溺れる自分はまだまだ未熟と笑い、またそんな自分が堪らなく愛しく思えた。
それも良かろうと結論付けると、不思議そうに自分を見つめる九龍を抱きしめる。
「剣介さん?」
無垢に首を傾げた彼に首を振り、抱いた腕に力を籠め言葉を濁す。
「何でもない。もう少しだけ…このままで居てくれるか?」
「剣介さん…」
真里野の腕の中で九龍は彼の腕の温かさを感じていたが、少しして一つ微笑むと自分も腕を上げて抱き返した。
「もう少しだけですよ?」
と、彼に甘え…枕もとの時計を手に取る。
「今は…えっと、4時過ぎだから…半まで」
「ああ」
「剣介さん、本当はもっと早く起きて修練しているんでしょ?すみません、俺が居るから…寝過ごしちゃいましたね」
「お主のせいではない。本当に起きたければ自然と目は覚めるものだ。
…今朝は拙者自身、珍しく深く寝入ってしまったのだろう。なにせ昨晩は…」
言葉を続けようとして、真里野は自分の言葉にそれ以上先を続けられずに赤面する。
真里野の腕の中で九龍は言葉を詰まらせた彼を見上げた。
「剣介さん?」
一度照れてしまうとなかなかどうして調子を戻すのは難しい。
「いや…その…何だ、う、うむ」
真摯に自分を見つめる視線を真里野は感じながら、一つ咳払いして緊張を緩めると苦笑いして言った。
「まぁ…何だな。無理はお互いに…という事か」
「!」
真里野が何を言いたいか察し、九龍も赤面すると顔を俯かせて…ボソリと呟く。
「…剣介さんの馬鹿」
「仕方なかろう。…忍ぶ恋こそ誠なり、だ。…忍んでいた分、想いの発露を見つければ荒れるものよ」
そう答えた真里野の顔を伺う。
穏やかに自分を見つめてくれる彼に九龍は、心の底から暖かい感情に包まれると、彼に回した腕に力を籠めた。
「…ありがとう、剣介さん」
耳に聞えるのは彼の心音。
死線を彷徨い続ける人生を送っている自分にとって、その微かな、そして確かな音こそ限りなく尊いモノに思えてならなかった。
九龍はその気持ちを彼ごと抱きしめると言葉にする。
「俺と出逢ってくれて。俺を…好きになってくれて」
「九龍…」
「…すごい、幸せです。俺」
「……」
その答えは更にと確かな…熱い抱擁だった。
この後結局、朝方ギリギリまで真里野の部屋で過ごした九龍は、自室に戻ると数時間だけの仮眠を取って学校に登校する事になった。
元からこの仕事自体が夜間だけを想定しての物だから、そうして数時間だけの睡眠で日常を乗り切るのは慣れた事ではあったが…。
先刻の真里野の言葉ではないが、昨晩無理させた体に通常通りの授業は厳しいものだった。
ふとすると襲ってくる眠気に慣れない体勢を強いた体の節々が痛い。
椅子に座っているのも辛く、横になって居たいと考えると…とりあえず、七瀬の件だけ終わらせてしまおうと考える。
昨晩、彼にと聞いた七瀬の話は、確かに彼が口にしたように放って置いて良い問題ではない。
何らかの対処なんし、保険医に相談させて解決を見たほうが良いのは明らかで…先ずはどういった状況なのか詳しく彼女に聞く必要があった。
今の一番の心配事であるそれを済ませたら、保健室で仮眠を取る事まで九龍は決めると彼女を探す事にする。
教室を訪れ、彼女が何時も居る図書室や書庫室、司書室を覗いて姿を探すが…その何処にも彼女は見つからなかった。
午前中の休み時間を使って全然見つからない彼女に九龍は弱ると、
彼女の体調が悪い事も考え、どうせならと保健室にも行ってみるかと足を向ける。
彼女がそこで見つからなければ、先に午後まで寝かせてもらおうぐらいに考えていた…―――――――――
「…月魅ちゃん居る?」
ドアの開く音と共にそう響いた声に…目を覚ます。
寝起きでぼうっとする視界が、さっと開かれたカーテンに眩しい光を捉えた。目に刺さるその光を避けようと腕をとっさに上げる。
「眩しい…」
一言文句を口にすれば、明るい日差しの先で、よく見知った声が響いた。
「あ…甲ちゃん。ごめん、寝てた?」
それに若干光に順応してきた目を開ければ、予想を裏切らず…きょとんとこちらを見つめた九龍が、自分を見ている。
「…俺になんか用か?くーちゃん」
「いや、甲ちゃんに用はないんだけど…」
折角と起き、九龍の用件を聞こうと思っていた皆守は…
その言葉に、肩透しを食らった気分を味わいながら、それも随分な言い方だと寝起き頭に思う。
九龍はそんな皆守の気持ちに気付かないのか、保健室をキョロキョロと見回すと先を続けた。
「俺、月魅ちゃん探してるんだ」
「七瀬?七瀬なら探すとこ間違ってるだろ」
皆守の言葉に視線を彼へと戻すと九龍も頷く。
「図書室と司書室は覗いた。教室もね。で、そこに居なかったから何処に居るんだろう?って、今は校内を探してるとこ」
「ふぅ…ん」
「昨日、剣…じゃなかった、真里野さんに月魅ちゃんの様子がおかしいって話聞いてさ。だから、彼女に話を聞こうと思って、朝から探してるんだよ」
「真里野にね…」
皆守は九龍の話を聞きながら一つ大きな欠伸をかみ殺すと、胸ポケットに手をやる。
中からアロマパイプを取り出し口にくわえ、ライターを今度は探して、学ランのポケットをごそごそと探し…
見つけると銀色のそれを使って火をつけ、一息吸う。
鼻に慣れた香りに安心感を覚えながら、尋ねた。
「そういえば、お前…真里野とやりあったって?」
「え?」
「寮の階段脇でお前らが喧嘩してたって話し聞いたぜ?」
ベッドの先、机の上にと無造作に置かれた保険便りを観ていた九龍は、皆守の言葉に驚いてその手を離す。
「あっ…」
「何やってんだよ、くーちゃん」
皆守は九龍が落として床にと散らばらせたプリントに目を留め、パイプにやっていた手を止めると、ベッドから降りて九龍へと近づく。
慌てて拾い集める九龍に倣って、床へと散らばったプリントを拾うのを手伝った。
「ごめん、甲ちゃん」
二人で拾いながら九龍は少し迷った後、先ほど聞かれた質問に口を開く。
「喧嘩っていうか…真里野さんとは、ちょっと行き違いがあっただけ。
別に甲ちゃんに心配されるような事はないよ。ちゃんとその後……和解、したし」
「ふぅ…ん」
九龍の言葉に頷き、ふっと彼に目を上げる皆守は九龍の耳元で目を留めた。
「ん?」
自分を見つめ、目を留めた皆守の視線に九龍は気付くと首を傾げる。
「何?」
皆守は口にくわえていたアロマパイプを口元から離すと肩を竦めて答えた。
「いや…珍しく今日は、右耳のカフスしてないんだなって思ってな」
その言葉にドキッとして、九龍は咄嗟にプリントを持っていた指を引く。
「…痛ッ!」
「ああ…ったく、今日はどうしたんだ?お前。…切ったか?」
「…少し」
痛みを感じた左の人先指の先に一筋、赤い血が滲んでいた。それを見ようと近づけた皆守の視界に九龍の首筋が入る。
「くーちゃん」
痛そうに未だに自分の指を見つめている九龍は、傷から顔を上げると自分を呼んだ皆守を見返した。
「ん?何?」
「昨晩探索行かなかった理由ってそれか?」
「え…?」
皆守は人差し指で自分の首をトントンと叩く。
九龍の首筋を差しているようだが…九龍には皆守が何を指しているのか分からず、眉間に皺を寄せると首を傾げた。
「?何か付いてる、俺?」
そう尋ねれば、皆守は床に散らばったプリントを束ねながらボソリと一言呟く。
「キスマーク」
「!!」
「…お前にそんな相手が居るとはな。知らなかったぜ。……よっと…これで全部か?」
と、全て拾い切ったプリントを揃え、立ち上がると元あった通り机に置いた。
「……」
九龍を振り返り、ふらりと立ち上がって黙ったままの彼に眉を寄せた。
「どうした?くーちゃん」
九龍は皆守に顔を上げると…複雑な顔をして、尋ねた。
「…結構目立つかな?これ」
学ランの詰襟に指を引っ掛け、僅かに首元を見せる。情事の痕など、からかわれる以外の何物でない。
特に全寮制の天香でそうしたものが教師に見つかれば、洒落にならないのも確かだった。
皆守はそこまでを察すると、九龍に一歩近づく。
「…見してみろよ」
と、九龍の首を見ようと身を屈めた。
「ん」
カチッ…と何時もは締めたままの詰襟を解く。
「どう?」
「う…ん」
「甲ちゃん?」
皆守は首を見ていた顔を一旦上げると顎でベッドを差し示した。
「そっち座れ」
「え?」
「電灯の影になってここじゃ見難い。…大体、お前の方が俺より背が低いってのも問題だな」
にやりと笑ってそういった皆守の言葉にカチンと九龍は頭に血を上らせる。
「!背の事は言うなよ!…これでも気にしてんだから」
『これでも』の言葉に皆守はクスリと笑う。
「そうなのか?」
唇の端で笑って、九龍を伺った。
九龍はその皆守の態度に更にと頭に血を上らせる。
「どうせ俺は低いです!」
「そうか…気にしてたか。悪い、悪い」
さも楽しそうにそう詫びる皆守を九龍は嫌疑的な眼差しで見つめた。
「…本当に悪いって思ってる?甲ちゃん」
「ああ、思ってるぜ?」
「もう…」
すっかりとへそを曲げてしまった九龍に皆守は肩を竦めると話を促す。
「で、どうすんだ?くーちゃん」
「え?」
「キスマーク。俺に見てもらいたいのか、もらいたくないのか?」
「あ、そっか。うん。見てくれる?」
その言葉に九龍も今までの事を水に流してか、皆守が先ほど口にした通りベッドへと腰を下ろした。
「今日体育が午後にあるから…目立つようなら休もうかなって、思ってさ。…どう?」
「う…ん」
ベッドに腰掛けた九龍の前に皆守は回るとその首元へ視線を落とす。
「シャツのボタン外すぞ」
「あっ……うん」
プチップチッとシャツのボタンを2、3個外し、広がった九龍の肌を皆守は見つめた。
「……」
確かに見えているだろうに、何も言わない皆守に九龍は段々と不安になると言葉を促す。
「甲ちゃん?何か言ってよ」
皆守はアロマパイプへと右手を添えると、上目遣いに九龍を伺って答えた。
「そうだな。…随分熱烈に愛されてるんだな」
「!」
瞬間、九龍の顔が赤く染まる。
赤面させた九龍の顔に皆守は目を留めるとにやりと笑った。その笑みに九龍は自分を取り戻すと恨みがましい声で文句を口にした。
「…そういう事言うなよ」
「何だ?そういう事が聞きたかったんじゃないのか?」
「違う!…分かってるくせに、直ぐからかう。甲ちゃんの悪い癖だよ、それ」
「俺らしいだろ?」
「……」
これ以上言えば完全に機嫌を損ねると皆守は察すると、九龍の前のベッドに腰掛け…アロマパイプに新しいものを詰める。
少し考えた後、尋ねた。
「相手は……真里野か?」
「ッ!」
「…当たりか。ふぅ…ん」
ちらりと見た九龍の顔に答えを察すると火を付ける。一つ大きく吸い、吐き出すと笑って言った。
「まァ…良いと思うぜ。誰か大事なやつが出来れば、自然と命を大切にするようになるしな。
…いっそ遺跡の事も忘れて、学生生活を楽しむってのも良いんじゃないか?」
肩を竦め、そう尋ねた皆守の言葉に九龍は首を振る。
「それとこれは別。そっちは仕事だからね。…最後まできちんとやるよ」
「…だよな」
予想通りの言葉が紡がれると…皆守は黙って、パイプから上がる紫煙に目を留めていたが…
やがてベッドから立ち上がると、ベッドの手すりにパイプの先を押し付け、火を消した。
「甲ちゃん?」
火を点けたばかりのそれをそうして皆守が消すところなど、とんと見たことのない九龍は、不思議に彼を見つめる。
火を消した皆守は九龍の疑問には答えずパイプを胸ポケットに仕舞い、
脇に置かれていたタオルを手に取るとベッドを取り囲むカーテンを引いた。
きょとんと自分を見続ける九龍に気がつけば、唇の端を上げて彼に近づく。
「九龍」
と、ベッドに座っている九龍の肩を押した。
「えっ…?」
何の準備もない九龍は抵抗なくベッドへと横倒しにされる。今は上にと乗っかった皆守を驚いたように見つめ返すとその名を呼んだ。
「こ、甲ちゃん…?」
「…こういう時は名前を呼ぶもんだぜ?九龍」
「な…何言ってるの?ちょ、ちょっと冗談は…」
「冗談でこんな事すると思うのか?」
九龍の言葉に被るように皆守は言葉を発する。
「俺が…男を押し倒すとでも」
「!」
分かっていても言葉にしなかった決定的な一言に、九龍はショックと共に上にと乗った皆守を信じられずに見上げる。
「な…何で?どうしてこんな事を…?」
「何で、ね。…そうだな。お前のキスマークを見て欲情した…っていうのはどうだ?」
「冗だ…ッ!」
「本気だ」
何時も飄々としていて何も映さない皆守の瞳は初めて見る男のように、鋭い眼差しで九龍を見つめていた。
九龍はその鋭い光に言葉を飲み込む。
「体格差なら俺の方が有利だが、大の男に抵抗されて上手くヤレるほど器用者でもないからな。…悪いが、縛らせてもらうぜ?」
「ちょ、ちょっと待……痛ッ!」
自分を押し返そうとしていた両腕を片手で纏め上げると皆守は、
腰にと巻いていたベルトを外し、九龍の手首を縛りその端をベッドの手すりへと結ぶ。
それが済むと先ほど手にしていたタオルを九龍の口に被せた。
「ついでにその口も塞がせてもらう。何せこの前は腐っても職員室だからな。…お前も嫌だろ?自分の嬌声を雛川とかに聞かせるのは」
優しく諭すように九龍へそう尋ね、一旦言葉を切ると…首を傾げた。
「それとも…抵抗するのは止めて、俺と楽しむか?九龍。それなら、別にこうして縛らなくてもいいが…」
黙って怯えた眼差しで自分を見続ける九龍の視線に、皆守は一つ溜息を吐く。
「…決裂だな。それじゃあ…」
学ランのボタンへと手を伸ばした。
「この辺から始めるか?」
一つ一つ学ランの無骨なボタンを外し、その下にと着込まれた白いワイシャツが見えてくると…その前も外す。
キスマークを見るために僅かに開いていた首もとは、ボタンを開けるに従って、更にその下へと続く白い肌を晒していき…。
カーテン越しに差し込む陽光がその肌を余す事無く皆守へと見せた。
風呂を共にした事もあるのに、こうして彼の肌を晒していく行為は皆守に何と無しの興奮を与える。
九龍が心配したキスマークの赤さが更にとそうした自分を刺激した。
白い肌と対照的な淫靡な赤い花。首元を中心に咲き乱れるそれに皆守は誘われるとそっとその肌に触れる。
「!」
外気に晒され、ひんやりとした皮膚は手にしっとりと馴染み、触れている自分の掌から体温を奪っては、その分暖かくなる。
「……」
指先に感じる更なる冷ややかさを求め、皆守は手を動かした。
動かすと九龍の肌の滑らかさに今度は魅了されて…さわりと肌の感触を楽しみ、九龍の胸部から脇にかけて手を這わす。
明らかに女の体とは違う彼の体は、薄い皮膚に浮ぶしっかりとした肋骨の硬さを指に伝え…息を殺して呼吸する肺の動きを掌全体に教える。
皆守はそうした九龍の呼吸を手で感じ、肋骨を撫で上げるように更にと手を這わす。腰へと手を下ろし、また上へと上げた。
「ッ!」
瞬間、九龍は皆守の手の中でビクッと身じろぎをする。
ここまで声も出さず、体を動かしもしなかった無反応の九龍が、
そうして反応を返したのに皆守は唇の端を上げると…今度はその肌へと唇を落とす。
胸元にキスをし舌で舐めると僅かに顔を上げ、唇の表面で九龍の胸元から腹へとなぞらせる。
僅かな柔らかい刺激と皆守の呼吸によって紡がれる暖かい息が、九龍の中に眠る情欲をちろりちろりと刺激する。
眉間は自然と寄り、皆守を刺激しないよう勤めていた体は否応なく動いて…身じろぎを繰り返した。
皆守は九龍のそうした様子に更にと笑みを濃くすると、胸の先端を口に含ませる。舌の上で転がすように…愛撫した。
「…ッ!!」
タオルによって阻まれる声。反りあがる体を自分の体重を使って押さえ、皆守は更に更にと刺激を与える。
反対の先端を指を使って刺激し、殊更ねっとりと口にと含んだ蕾を、舐めれば…
やがて、ぐったりと反りあがっていた九龍の体はベッドへと身を沈めた。
タオルから漏れていた声もそれと共に沈着を見せる。九龍のそうした様子に皆守も顔を上げる。
上げた先で見た九龍の表情には自己嫌悪に満ちた歪んだ表情と、相変わらず自分を見返す…自責を促すような無垢な眼差しがあって…。
皆守はそんな九龍の視線から顔を逸らすと…また胸元に顔を落とし、舌を這わしながら…九龍のズボンの前を開けた。
片腕を下着の中に入れ、彼に触れる。
「…ぅ…!」
落ち着きを見せていた九龍はそれによってまた身じろぐ。体を反らし、先程同様タオル越しに声を響かせた。
その声を聞きながら皆守は、自分の掌に包まれる暖かいそれを指で撫で、愛しもうとするが…。
「失礼します」
保健室の扉の開く音と共に響いた声に、驚いて手を引いた。
「…ルイ先生?」
カーテン越しに伺っていれば、聞き覚えのある声は保険医を探してか、保健室を動き回っているのが分かる。
「……」
やがてはここを開けるかもしれないと皆守は察すると、肌の晒された九龍に口元まで布団を掛け、縛った腕の上にと枕を置く。
パッと観では見つからないだろう事を確認してから、カーテンを引いて声の主に声を掛けた。
「取手」
ちょうどこちらへと歩き出していた取手は、一瞬驚いたように目を見開くが、直ぐに見慣れた皆守の顔に表情を緩める。
「あ、皆守くん」
「カウンセラーなら今、席を外してるぜ」
「そうなの?」
自分の言葉を聞き返す取手に頷きながら、皆守は胸ポケットからアロマパイプを出すと口にくわえる。
「ああ。何でも…朝一で職員会議だとか。戻ってくるのは、4時間目の終わりくらいとかって言っていたな」
ポケットからライターを取り出して、火をつけた。
「ふぅ…ん」
そうした皆守を取手は見つめ…彼の後ろ、皆守が座るベッドのカーテンの端から見えたもう一人分の髪の毛に気付けば、首を傾げた。
「あれ?そこ誰かまだ寝てる?」
「ん?ああ…くーちゃんだよ」
皆守の言葉に取手は眉間に皺を寄せる。
「はっちゃん?…具合、悪いの?」
心配してそう尋ねた取手に皆守は苦笑すると、首を振って見せる。
「いや、寝不足で寝るとこ探してここを見つけたって。…さっきからここで寝てる」
その言葉に心底安心感を覚えたようで、取手は険しくしていた表情を崩し、微笑んだ。
「そう、良かった。具合悪くて眠っているのかなって一瞬、心配しちゃったよ」
「安心しろ。お前も知っての通り、こいつは怪我やら病気とは無縁だからな。…大体昼寝にって辺りが、こいつらしいだろ?」
「ふふっ…だね」
呆れたように肩を竦めた皆守に取手はクスリと笑い、頷くと机を振り返り、首を傾げる。
「さて、じゃあ僕はどうしようかな。先生に逢いに来たんだけど居ないなら、ここに居ても仕方がないし…」
もう一度皆守を見ると尋ねた。
「皆守くんはまだここに居る?」
「俺?…ああ、俺もくーちゃん同様、もう一眠りさせてもらうつもりだ」
「そう。じゃあ、ルイ先生が戻ってきたら僕が来た事伝えてもらえるかな?明日のカウンセリングの時間の事で相談したいって」
「わかった。伝えとくよ」
「うん、よろしく頼むね。…じゃあ、はっちゃんにもよろしく。また…」
「じゃあな」
一つ頭を下げると取手は、保健室を出て行った。
その後姿を見送り…充分時間を取った後、皆守は立ち上がると保健室の入り口に近づき、その扉を閉める。
入り口の脇にある部屋の電気も消し、無人の保健室を装わせてからベッドへと足を向けた。
半分以上掛かったままだった白いカーテンを片手で開け、中にと入り込み…先程上に掛けた布団を取っ払い、横たわる九龍の表情を見つめる。
「…残念だったな」
九龍は皆守を見つめ返していた。何時も明朗な黒い瞳が、僅かに濡れている。
それに目を留めると皆守はベッドに腰を下ろし、九龍の頬に掌の甲で触れた。
「泣いているのか?九龍」
優しく頬を指で撫でれば、九龍は目を瞑り今まで瀬戸際だっていたその雫を頬へと流す。
静かに流れ落ち、自分の指を濡らした涙の冷たさを皆守は、感じながら…目を細める。
頬に当てていた手を上げ…九龍の口を塞いでいたタオルを取り除いた。
「泣いたら俺が止めると思うのか?俺が…そんなに甘い男だと?」
「……」
「九龍、分かっているんだろ?俺は…一度始めた事はきっちり片を付ける、そういう男だ。
こうなった以上、手を緩める気はない。なら…お前も楽しめよ。…じゃないと辛いぜ?」
脅すようにそう言っても何も返さない九龍に皆守は苦笑いを浮かべる。
「無理な話、か」
そう呟くと彼から視線を逸らした。
「…て…」
「ん?」
やがて聞えた九龍の声に皆守はまた視線を戻す。九龍は相変わらず濡れて揺れる眼差しで皆守を見つめ返していた。
「…どうして…?」
「……」
「どうしてこんな事…する…?…甲太郎」
皆守はその言葉に九龍を見つめ、黙ると…口にくわえていたアロマパイプを手に取る。
涙を零す九龍の顔を真っ直ぐ見て…口を開いた。
「…お前が好きだから」
「…っ…」
九龍が息を詰める。それを見つめ…俯くと言葉を続けた。
「愛してるからだ」
九龍は暫く信じられないと言ったように皆守を見つめていたが…ぽつりと言葉を漏らす。
「…嘘…」
一言、空気に響いた言葉に皆守は顔を上げると、九龍を見つめる。
「どうして嘘だと思う?」
「…嘘…だよ」
「……」
「嘘だ。だって…甲ちゃんは、何時だって俺の事を大切にしてくれたじゃないか。
まるで兄弟か何かみたいに…時には馬鹿やって、俺達は笑い合って居ただろ?」
「……」
皆守は手にしていたパイプを口にやり、香りを胸に満たすと…首を振った。
「九龍。それが…演技じゃないってどうして言える?」
「…っ…」
「所詮人の心なんて他人には見えないもんだ。お前に合わせて俺が演技してなかったって、どうしてお前に言えるんだ?」
「甲ちゃん…」
「幾らだって演じれるもんさ。お前を信用させるため、お前が俺を信用し、心を許すためになら…俺は幾らだって演じるし、嘘を…吐いてみせる」
「……」
「だから…分かった風に言うな。お前は俺の事を…何も分かっていない」
「甲太郎…」
皆守はそこまで話すと口元のパイプを取り、さっきしたようにその火を消すと九龍の上に圧し掛かる。
「お喋りは此処までだ。…続きを始めるぜ、九龍」
「…っ…」
九龍の体を先程とは逆に…うつ伏せにさせ、片手を使って枕に顔を埋めさせた。
「甲ちゃ…ッ!」
口を塞いでいたタオルを取っ払っても…枕にそうして押し付けられた九龍は、
それ以上の言葉を口に出来ず、押し付けられた腕の強さに皆守の本気を知って恐怖する。
先程以上に自由にならない視界が、更にと恐怖を煽り立てた。
皆守はそうした九龍の気持ちも知らず、彼の腰を引き膝立ちにさせると、乱暴にズボンを下ろす。
「!」
視界が閉ざされても九龍にもそれが分かって…皆守の掌の中で、九龍は慌てたようにもがいた。
逃れようとする九龍を腕に力を籠める事によって抑えると皆守は、九龍の背に身を伏せる。
今は露になった九龍に頭を抑えた手とは逆に触れ、中断していた行為をなぞるように愛撫する。
愛撫が始まればもがいていた九龍もそれ以上抵抗できなくて…今度は自分に触れるその掌の感覚に翻弄された。
感じてはいけない、欲情しては…と思うも、抗い難い快感に苛まれ…何時しか皆守の掌の中でそれは、確かなものへと変わっていく。
皆守は九龍のそうした様子を鼻で笑うと自分のズボンに手を掛ける。前だけ開け、九龍を愛撫するに従って欲したそれで九龍の臀部に触れた。
「ッ!」
瞬間九龍の頭がビクッと動く。
それに続いて暴れるようにもがいたが…押さえつけ、黙らせると…九龍を愛撫していた手を放し、指を中に差し入れる。
一本入れ中の具合を見た後、もう一本と指を増やした。指先は暖かい彼の体内の様子を感じ取り飲み込む指をひくつくように締める。
誘っているようなそこに苦笑すると指を抜き、自分を宛がった。今は抵抗も止めた彼の背に身を伏せ、その耳元に囁く。
「…アイシテル」
その言葉をきっかけに皆守は九龍の中へと押し入った。
「!!」
枕に押し付けた九龍の頭がこれでもかと抵抗をするが、上から体重を掛ける皆守には勝てず…なし崩し的に更にと二人の密着は深まっていく。
やがて奥まで入りきると、皆守は一旦力を緩める。その頃にはぐったりと九龍も抵抗を止め、皆守のなすが侭になっていた。
「九龍…」
掠れた声で皆守は九龍の名を呼ぶ。
痛みを感じているだろう彼の体を思いやり…頭を抑えていた手で彼の頭を撫でてやる。
抑えのなくなった九龍の頭はそれに従って、枕にと横になり…その頬には先程以上に痛ましい涙が流れていた。
それに目を留めると皆守は撫でていた手を止め、九龍の表情から逃れるように顔を背ける。
九龍の背に顔を伏せ…彼の鼓動を聞き、自分を時々締め付ける九龍の体を意識し……顔を上げるとまた九龍の頭を枕に押し付けた。
腰を動かし、その一方で九龍に触れ…彼を愛撫して…極みへと上っていく。
ギシギシとしなるベッドの音と、衣擦れの音が…やけにリアルに、皆守の耳に響き…
ただ一つ欠ける嬌声を心の中で聞きながら…皆守は只管絶頂へと向った。
「…ァ…んッ!」
震える口元から激情を抑えた声を発し…自分を解放した皆守はそのまま、九龍の背へと体を伏せる。
自分の頬に触れる九龍の学ランの背を感じながら、自分の掌で果てた九龍を放し…自分の体の下で苦しそうに息を吐く彼の頭を解放した。
「…ぁ……はぁ…」
九龍は枕に押さえつけられていた故の呼吸の足りなさを開放される事により解消し、浅く早く息を吸う。
やがて、それも収まると…ずるずるっと重い荷物がずり下がるように膝を崩して、ベッドへと横たわった。
皆守はそうした彼から体を起すと、倦怠感の残る体に鞭打ち…衣服を整える。
九龍の腕を縛っていたベルトを解き…そこに出来た擦り傷から目を逸らして、彼の衣服も整え綺麗にしてやると…ベッドの足元へと移動した。
足側の手すりに身を預け、胸ポケットを探る。
指で何時もそこに入れるアロマパイプの硬さを探すが、それはそこにはなくて…。
目を伏せ胸元を見れば、その先にとあるベッドの床に落ちたパイプをカーテンの裾越しに見つけた。
「……」
動き回るうちに落としてしまっただろうそれを、見つめ…少し迷った後、手を伸ばして取る。
新しいアロマを詰め、口にくわえ火をつけると目を瞑り、香に身を置いた。
「………」
安らぎを与える何時もの香り。それに視界に入る九龍の姿が…香りへの意識を妨げる。
多くの涙と彼の声なき悲鳴を飲み込んだ白い枕。本来なら体を休ませるための保健室のベッドで、彼を傷つけた自分。
『どうして…?』
先ほど九龍が口にした台詞が耳に蘇る。
口にした言葉。嘘だと、演技だと彼に告げた自分。
それを胸に蘇らせて…皆守はふっと気だるげに笑うと首を振った。
保健室の窓から入る陽光は明るく。昼、間近の空気は長閑だが…。
安穏をもたらすアロマパイプを口にくわえた青年の表情は重く…昼の光にやがて紛れていった…―――――――――――――
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